寺報 信仰文化 通刊39号

学術文化発信『上野の森』 基いは東叡山初代学頭 亮運に!
日本一大きな葵紋に本邦唯一の高松又八の彫刻 −行元寺−

天海大僧正と共に徳川家康・家光公の講師 第十八世 行元寺亮運

亮運画像-光明寺蔵- 徳川家拝領 天海画像


テレビ等のドラマにも登場する天海は、家康の黒衣の宰相、またブレーンとも呼ばれ、
南光坊天海の名をもって広く知られ、慈眼大師の諡名(おくりな)をもつ。



弁論博学の第一人者 成東 光明寺で出家 住職



この天海と共に家康の講師を務めたのが、行元寺第十八代亮運で、行元寺に在職した頃の名は
「定賢(じょうけん)」、のち「厳海」「亮運」と改名している。

ところで亮運は、総州は武射郡富田村(限千葉県山武市富田)に、永禄元年(一五五八)四月八日
に生まれた。
九歳で富田光明寺の賢栄につき、十五歳で薙髪(ちはつ)して定賢と名づけられた。

学問に秀で弁論博学で知られた。

上州江戸崎の天龍和尚と問答対決して認められたのが十九歳のときで、これよりのちは弁博の第一
人者として名をなした。
文禄三年(一五九四)光明寺住職の座についた。



慶長九年(一六〇四)行元寺へ晋山


 それから数年たった慶長四年ごろともなると、日蓮宗徒と天台宗徒との対決が激しくなって、
互いにくすぶり続けていた。

こんな事情から亮運が行元寺十八世住職に抜擢されたのである。
天台教学に通じ博学多才、しかも弁舌にすぐれている点からであった。

ときに、関が原の戦の数年後の慶長九年(一六〇四)六月である。

亮運が行元寺住職についたことで、夷隅川以北の天台宗の寺々の多くは改宗を免れ、
法灯を堅持して現在に至っているといってよい。

赴任したその六月は、荻原地方の農家は旱天のため苦しんでいた。
大多喜城本多忠朝の命で、亮運が祈雨法つまり雨乞いを修したところ『雨沛然と降る』
(東叡山諸記録)とあって、農民の喜びは大きく、城主本多忠朝は亮運を信頼して帰依深く、
忠朝は亮運を師と仰ぐ。



本多忠朝 亮運に帰依
温情でドン・ロドリゴ一行助ける



 さて、亮運が行元寺住職となって五年の慶長十四年(一六〇九)九月三日のこと、フィリピン
諸島臨時長官の任を終えたドン・ロドリゴ一行が、ノベスパニヤ(メキシコ)へ向かう途中に
上総岩和田(御宿町)沖で暴風のため遭難した。

自力と海女の救助で三百十七名が助かり、大多喜城に知らされ、これを聞いた城主本多忠朝は
「厚く優遇せよ」と温情ある命を発した。

三十七日間、岩和田で過ごした一行は大多喜城に招かれ歓待された。
ドン・ロドリゴは「日本見聞録」を書いて、城のようすや大多喜城下の人口まで記した。
一万ないし一万二千とある。

当時、房総きっての人口があったことがわかる。

一行は江戸で秀忠に、駿府で家康の接待を受け、家康から京都見物までのサービスで豊後臼杵から
帰国した。

 ドン・ロドリゴがノビエスパニヤの首都メヒコ市の近くにあるタスコ銀山の長官であったと知った
家康は、新しい精錬法をきくために、再度駿府に招いて半年にわたってサービスにつとめた。

この結果、アマルガム法を知ったのである。

ドン・ロドリゴは京や堺の商人等と翌十五年、アダムス(三浦按針)が造ってあった、
サンタ・ペナンス号で無事ノビエスパニアに帰った。

これが日本人最初の太平洋横断であった。

ロドリゴの技術指導で徳川政権は豊かになった。



亮運、駿府城で問答「関東天台法度」成立


 行元寺亮運は天海大僧正と共に家康のもとに足を運ぶ。

行き先は駿府城で、公的記録によると慶長十八年二月十八日の記録が一番古い。

駿府城で比叡山正覚院豪海と行元寺亮運、また天海と亮運と問答を行って家康を満足させた。

あと二十三日と二十八日にも行い、家康は亮運に酒食と銀十枚さらに被物二領をおくった。

これによって「関東天台宗法度」が成立して、関東天台の権力が重んじられ、全権が関東方に
吸収されたとみてよい。

 この年、つまり慶長十八年十月二十九日、天海は川越喜多院で論議を行い、家康が聴聞し、
そのときの講師を亮運がつとめた。

翌十九年には家康のもとで、天海と亮運は毎月、数日にわたって講師となっている。
ここで、家康は天台血脈を受けたのである。

長持  −東陽寺蔵−
 家康、亮運の問答に満足し、銀10枚、被物2領など賜る。



行元寺の唄と踊りで家康歓待



 この慶長十九年(一六一四)正月、家康は上総東金に鷹狩にやってくる。

東金間の御成街道が三日三晩でできたのであったが、大多喜城主の本多忠朝は悩んだ。

日ごろから家康に「父忠勝に似ぬ臆せし」のレッテルをはられていたからだった。

そこで行元寺亮運に同行を頼み、荻原村の村人は家康の乗馬の藁株を進上、
城主は大多喜名物の紫鯉を贈り、さらに村人は行元寺の唄と踊りで歓待した。

家康はこれによって満足、荻原の村人に鷹場免除の黒印と鳥銃十挺をくれたという。


家康の父子比較 忠朝 夏の陣で討死



 その十一月に大阪冬の陣が起こった際、陣地が雨に濡れて条件が悪く、部下の難儀を思って
家康に陣地の変更を願った。

家康は怒り「汝が父は山をも川も嫌ったことなし」と叱り飛ばした。

無念に思った本多忠朝は、あくる大阪夏の陣に名誉挽回、愛馬「百里」にまたがって敵陣深く
進んで首級をあげ討死、

荻原の土橋加兵衛、引田の土屋太郎八、大野の藤平次右衛門などが忠朝に従って奮戦活躍討死した。

家康拝領の挟箱


天海大僧正 寛永寺を創建 亮運 初代学頭職に



 一方、天海は、二代秀忠から上野台地の一部を拝領し、三代家光は上野忍ヶ岡の地と秀忠の旧殿、
そのうえ白銀五万両を天海に与え、江戸城鬼門除けとして東叡山寛永寺を創建した。

したがって天海は開山主となり、東叡山学寮を設けたことで亮運は凌雲院を開基して、
初代学頭となって、関東各地に檀林などを設けた。

各檀林等有機的に結んだことで、多くの俊英が集まって天台教学は伸展、江戸との交流が盛ん
となる。


亮運ゆかりの行元寺に 上野寛永寺 凌雲院 霊前石燈籠寄進


 寛永二十年(一六四三)天海は一〇八歳で他界し、あとは亮運が家光の師となる。

天海は関東天台の生みの親とされ、一方亮運は育ての親だと言われている。
こうして多くの業績をおさめた亮運も、慶安元年(一六四八)十一月四日九十一歳で入寂した。

あと亮運の住した寛永寺凌雲院は、歴代学頭職の居所となって、将軍は代々凌雲院に帰依した。

 現在、上野公園界隈が学問や芸術のメッカとなっているが、その基いは房総出身で行元寺住職を
務めた亮運にあると言ってよい。

凌雲院跡地は今、国立西洋美術館や東京文化会館になっている。

そこにあった亮運の墓前に、弟子たちが建立した石燈籠が、ゆかりの行元寺に東京の舘克亮師から
贈られた。

これには「当山初代学頭 権僧正亮運法印」と刻まれ、裏面に「慶安元年霜月四日」とある。
奇しくも亮運が亡くなって、三百六十一日に当たる。





山門彫刻の極彩色復元

裏側、中通り近く完成



羅漢と寅図彫刻ほか

高所に掲げるので、細かくは見えなくなる。



 行元寺山門の彫刻を極彩色の寛永文化に復元する漆工事は二十年春からすすめられ、二十年八月に
前面が完工した。

つづいて裏側及び山門中通りの彫刻および柱や壁面など丹色に戻す復元工事中で、近く完了する予定。

顔料は瑠璃(ラピスラズリ)や孔雀石、水銀からの朱、丹土などを用いて桃山文化と元禄文化の中間にある
奇麗美を誇る寛永の輝きに返す。

JR東日本文化財団が十九年から二十一年度まで四百万円の支援、さらに井上ツヤ氏の百五十万円の
特別志納、ほかには鶴岡はな子氏はじめ檀徒の多額の特別浄財、県下ほか他県からの多くの方の浄財志納、
拝観料、布施等すべてを投じての復元中である。



北斎漫画、挿絵など紹介


−佐倉城下の柳屋店頭図−
高弟、辰斎の肉筆画も



 当山の波の伊八の「波に宝珠」彫刻が葛飾北斎に大きな影響を与えたとして、伊八彫刻を拝観に訪れる
人々で連日賑わっている。

 浮世絵研究家として知られる仁科又亮氏の支援を得て、いま北斎高弟の辰斎(しんさい)の肉筆画を
紹介している。
辰斎は名を政之といい、寛政から文化にかけて活躍した。

北斎と六樹園を吉原へ迎えに行ったときの座画。

印を持っていなかったため、北斎の印を捺してある。
辰斎の作は北斎の美人画そっくりと言われる。

 六樹園は、狂歌師として知られ、宿屋飯盛の名で北斎と親交があった。
また「飛騨匠物語」を北斎の挿絵で出版している。

 更に紹介してあるのは、房総を舞台にした談州楼焉馬(えんば)の作品「忠孝潮来府志」(全六巻)
は北斎の挿絵で稀本とされる。

行徳・大和田・小金原・船橋・成田・検見川・馬加里(幕張)・白井・東金・保田・加知山・鎌ヶ谷・
松戸・我孫子などの地名が出ていて、房総を舞台にした小説として「里見八犬伝」に敵するとされている。
ほかに、北斎漫画も必見の要がある。


狂歌は六樹園宿屋飯盛の作
佐倉城下柳屋店頭図 北斎